雨粒とスニーカーの話

先日白いスニーカーをおろした。インソールが桃色でなんとも女の子らしく自分には似合わない物だ。今日は土砂降りの雨、外出に際しててっきりスニーカーも汚れると思ったが、雨粒を受けてきらきらと輝いていた。そのときふと思い出したのが、自分が乾燥剤のような存在になりたかったこと。


乾燥剤は湿り気を吸うもので、わたしもそんな人間になりたかったけれども、今日濡れた靴を見たときに美しいと感じたのだ。物は言いよう、湿り気も潤い。後にわたしは鞄の中でばらばらに破裂した乾燥剤を見て、早朝のテレビショッピングで肩を竦める外国人のように困ったジェスチャーをすることになる。(Hi,ケニー、そんな汚れたTシャツを着てどうしたんだい)

乾燥剤は果たして幸せだろうか(それが破裂しているかしていないかは置いといて)。周りを笑顔にしたいと思った過去の自分は褒めるに値するかもしれない。でも"在る"ことに関してときどきわたしは忘れがちになる。在るだけでありがたい、在るだけで暖かい、在るだけで幸せ。それは往々にして無くなったときに思い出される。

でも分からない。
おろしたてのスニーカーが濡れて輝いて見えたのに気付けるのはいいことかもしれないからだ。わたしは在ることの有難さが少しでも、本当にそれが小指の爪のような小ささでも分かる人間でいたい。そうやって人生のハードルを上げて自壊していく。

何が言いたいかというと、わたしは白と桃色のスニーカーが少し好きになった。それだけでおしまいだ。今夜もおやすみなさい。

音の雨

徒然なるままに文章を書き晒していこうと思う。


今日、蝉の鳴き声がぽつりと足元に降ってきた。そうか、夏が来るのか。あの子が亡くなって幾度目か、もう数えていない。未だに"あの子"と呼べばいいのか"あいつ"と呼んでいいのかはたまた"奴"と呼ぶべきなのか分からない。と言うのは、あの子が亡くなったとき、わたしもあの子も間違いなく<子ども>だったからだ。そして間違いなくわたしが終わりに引き寄せられるのはあいつのせいだからだ。加えると奴の面影がわたしの中で勝手に薄まっていくのに怖れを抱いているからだ。


あの子と呼ぼう。

兎にも角にもあの子がいない何度目かの夏がやってくる。今日車を降りて一粒落ちてきた蝉の声は、多分わたしが思っているよりも早く蝉時雨となっていくのだろう。歳をとったわたしにはだんだんと季節が短く感じられる。

夏は好きだ。
去年の夏は自分の家庭で『阿片の人生の夏休み計画』が施行されていて、わたしは地方公務員の試験の参考書を片手に、天気がいい日は庭のブルーベリーを収穫し、冷房の効いた部屋で昼寝をし、夜は父とビールを一杯、そんな生活を送っていた。大学に籍を置いたまま、退学届を提出するのも後回しに(そのツケは見事に秋に来ることとなる)、悠々自適に生活していた訳だ。

それまでは夏があまり好きではなかった。これから夏が嫌いになる年もあるかもしれないが、地球に文句を言ってもしょうがない。今年の夏はどうなるだろう。そんなことを考えながら、仲間より早くひとりぼっちで羽化してしまった蝉の声を身体に染み込ませるのだった。