化粧をする武士


ペンシルアイライナーをうっかり何度も折るような人生を送っている。わたしはなけなしの賢さを総動員させてペンシルタイプからリキッドタイプへ方向転換した。コストパフォーマンスがいい。


仕事のある朝にメイクをしていると顔を作る速度と顔が崩れる速度が同じになってくる季節になった。七月も半ば、朝から汗が止まらない。メイク道具の中で細菌が増殖しているであろうことを想像すると、なんでこんなものを塗りたくっているんだと男性に生まれなかったことを後悔する(それはそれで受精した精子が違うので阿片自身とは言えないのが更にネック)。

それはさておいて、化粧で多少でも血色を良くして外を歩くとまるで自分がひとりの女の子になったようで嫌いじゃない。ルージュを引いた唇に髪の毛が張り付くのを取り払いながら、いのち溢れる街を、歩いていく。仕事なんて放り出してカラオケに行きたくなる。まるで女子。わたしは永遠に18歳χヶ月なのだ。夏なのでこれくらいイカれた方が丁度いい。そんなことを夢想しながらきっとわたしはちゃんと仕事へ行く。結局のところイカれるのは怖い。お賃金のこともあるし。

化粧一層分離れた場所でわたしはわたしを演じ続け、お腹が空いて、どんな日でも仕事は終わる。そして、どんな日でも化粧は落とす。一日を一回だけ生きて、明日のことは明日のこと、わたしは今日分の不安を消化して万全な状態で眠りに入る。

化粧は戦装束、こころの汚れと今日の汗と気持ちの張りをオイルでよく溶かして水へ流していくその瞬間、ただひとりの人間に戻ったわたしは時々18歳の夢を見て、あの頃は良かったな、なんて。老人の常套句さ。

少女のメイクは自分を大人っぽく魅せるもの、女性のメイクは自分を若く見せるもの、そんなことを言っていた人がいたなぁ、などと思う。本日も夜だ。この街は二酸化炭素で満ちるだろう。

まだ情けないことにあの日に燻っている


夢を見た。


床から天井にかけて葡萄酒色のビロードが敷かれた暗い廊下に、数字だけ書かれたドアがいくつも並んでいる。どうやら集合住宅らしい。金色の髪の少女や栗色の髪の少年とすれ違いながら、わたしは自分の部屋を探していた。手掛かりは手の甲に油性マジックで書いてある消えかけた数字だけ。

彷徨っている内に何も書いていない扉にたどり着いた。開けると音の洪水に圧倒される。中は広いホールになっていて、ステージには年の頃40といった感じの男性とピアノ、観客席は満杯。歩いたり、聴いたり、出入りする人々で大変賑わっている様子だった。わたしもホールの向かい側の扉へ行こうと歩を進めると、それまで流れていたピアノ演奏が止まる。相変わらず騒々しい空間で男性の声が響いた。

「リクエストはございますか?」

その瞬間、ホール内はピタリと音が止まる。わたしは思わず手を挙げた。他の何人かも手を挙げたが男性が言った。
「そこの出口近くのお嬢さん」
わたしの方を見詰めて言うので答えた。
「亡くなったあの子に一曲」
「亡くなったあの子に?」
「友だちを喪くしたのです」
それを聞くと男性はゆっくりピアノ椅子に座り、一曲奏でてくれた。聴いたこともない静かで美しい旋律だった。自分は今まで、人生の今の今まで堪えていた全てがこみ上げてきて溢れるのを感じた。演奏が終わったとき、一人拍手をすると、つられて何人かが手を叩き、やがて会場内は大きな喝采で包まれた。

夢から覚めたとき、わたしは、友人の死がわたしの人生に影を落としているのではなく、わたしを光に押し上げてくれるものであったら幸いだなと思った。きっとあの子もそう思ってくれると。

パンダ


昔からの惰性でベッドの上にぬいぐるみを敷き詰めて寝ている。今日はふとパンダのぬいぐるみを見て、ああ、動物園に行きたいな、なんて思う。


わくわくとした空気を吸い、いつ見ても目に新しい動物達を見て、たっぷり陽に焦がされて帰ってくる、そんな時間を買う。そんなことを考えるだけで(物理的にも)小さな胸が踊ってしまう。

完全に娯楽性の塊のような動物園はとてもあざとい。抗えぬ、ないし抗うことの許されない空間はお金が要る。酸素を買うようなものだ。人間はそうやってゆっくり酸化して老化を進めやがて死ぬ。

酸化するのならいい空気を吸いたいなと思った。わたしに限った話で申し訳ないが職場の空気ばかり吸っていては絶対に駄目になる。そこでわたしは週休χ日を選んで働いてみたりなどする。抗えない空間があるのなら抗える空間で対抗するのだ。

休日は有意義なことに使いたい。今夜はパンダのぬいぐるみに鼻を沈めてから眠りにつく、そうしよう。今日よりも明日が、明日より明後日が幸せであるように、時には落ち窪んでしまってもまた良くなるように、わたしには毎日を過ごすしかできない。そんな人生のスパイスがパンダの香りだとしても、いいんじゃないか。

雨粒とスニーカーの話

先日白いスニーカーをおろした。インソールが桃色でなんとも女の子らしく自分には似合わない物だ。今日は土砂降りの雨、外出に際しててっきりスニーカーも汚れると思ったが、雨粒を受けてきらきらと輝いていた。そのときふと思い出したのが、自分が乾燥剤のような存在になりたかったこと。


乾燥剤は湿り気を吸うもので、わたしもそんな人間になりたかったけれども、今日濡れた靴を見たときに美しいと感じたのだ。物は言いよう、湿り気も潤い。後にわたしは鞄の中でばらばらに破裂した乾燥剤を見て、早朝のテレビショッピングで肩を竦める外国人のように困ったジェスチャーをすることになる。(Hi,ケニー、そんな汚れたTシャツを着てどうしたんだい)

乾燥剤は果たして幸せだろうか(それが破裂しているかしていないかは置いといて)。周りを笑顔にしたいと思った過去の自分は褒めるに値するかもしれない。でも"在る"ことに関してときどきわたしは忘れがちになる。在るだけでありがたい、在るだけで暖かい、在るだけで幸せ。それは往々にして無くなったときに思い出される。

でも分からない。
おろしたてのスニーカーが濡れて輝いて見えたのに気付けるのはいいことかもしれないからだ。わたしは在ることの有難さが少しでも、本当にそれが小指の爪のような小ささでも分かる人間でいたい。そうやって人生のハードルを上げて自壊していく。

何が言いたいかというと、わたしは白と桃色のスニーカーが少し好きになった。それだけでおしまいだ。今夜もおやすみなさい。

音の雨

徒然なるままに文章を書き晒していこうと思う。


今日、蝉の鳴き声がぽつりと足元に降ってきた。そうか、夏が来るのか。あの子が亡くなって幾度目か、もう数えていない。未だに"あの子"と呼べばいいのか"あいつ"と呼んでいいのかはたまた"奴"と呼ぶべきなのか分からない。と言うのは、あの子が亡くなったとき、わたしもあの子も間違いなく<子ども>だったからだ。そして間違いなくわたしが終わりに引き寄せられるのはあいつのせいだからだ。加えると奴の面影がわたしの中で勝手に薄まっていくのに怖れを抱いているからだ。


あの子と呼ぼう。

兎にも角にもあの子がいない何度目かの夏がやってくる。今日車を降りて一粒落ちてきた蝉の声は、多分わたしが思っているよりも早く蝉時雨となっていくのだろう。歳をとったわたしにはだんだんと季節が短く感じられる。

夏は好きだ。
去年の夏は自分の家庭で『阿片の人生の夏休み計画』が施行されていて、わたしは地方公務員の試験の参考書を片手に、天気がいい日は庭のブルーベリーを収穫し、冷房の効いた部屋で昼寝をし、夜は父とビールを一杯、そんな生活を送っていた。大学に籍を置いたまま、退学届を提出するのも後回しに(そのツケは見事に秋に来ることとなる)、悠々自適に生活していた訳だ。

それまでは夏があまり好きではなかった。これから夏が嫌いになる年もあるかもしれないが、地球に文句を言ってもしょうがない。今年の夏はどうなるだろう。そんなことを考えながら、仲間より早くひとりぼっちで羽化してしまった蝉の声を身体に染み込ませるのだった。