雨粒とスニーカーの話

先日白いスニーカーをおろした。インソールが桃色でなんとも女の子らしく自分には似合わない物だ。今日は土砂降りの雨、外出に際しててっきりスニーカーも汚れると思ったが、雨粒を受けてきらきらと輝いていた。そのときふと思い出したのが、自分が乾燥剤のような存在になりたかったこと。


乾燥剤は湿り気を吸うもので、わたしもそんな人間になりたかったけれども、今日濡れた靴を見たときに美しいと感じたのだ。物は言いよう、湿り気も潤い。後にわたしは鞄の中でばらばらに破裂した乾燥剤を見て、早朝のテレビショッピングで肩を竦める外国人のように困ったジェスチャーをすることになる。(Hi,ケニー、そんな汚れたTシャツを着てどうしたんだい)

乾燥剤は果たして幸せだろうか(それが破裂しているかしていないかは置いといて)。周りを笑顔にしたいと思った過去の自分は褒めるに値するかもしれない。でも"在る"ことに関してときどきわたしは忘れがちになる。在るだけでありがたい、在るだけで暖かい、在るだけで幸せ。それは往々にして無くなったときに思い出される。

でも分からない。
おろしたてのスニーカーが濡れて輝いて見えたのに気付けるのはいいことかもしれないからだ。わたしは在ることの有難さが少しでも、本当にそれが小指の爪のような小ささでも分かる人間でいたい。そうやって人生のハードルを上げて自壊していく。

何が言いたいかというと、わたしは白と桃色のスニーカーが少し好きになった。それだけでおしまいだ。今夜もおやすみなさい。