好きよ好きよも嫌のうち
わたしが小さい頃、ドロップ缶を見ると無性にときめいた。今もドロップ缶があるとわくわくする。苺かな?メロンかな?
薄荷かな?
薄荷のドロップは、幼かったわたしたちの間ではハズレだった。辛くて鼻が痛くなるから。先日母と話したら、子ども時代、薄荷はアタリだったと言う。何が薄荷をハズレにしてしまったのだろうか。
いずれにせよ、きらきら光るドロップの中で薄荷は特別な"なにか"であるようだ。
何事にも触手を伸ばしておくと、特別なものがたくさん増えてくる。けれども、知らない世界へ入るあと一歩が、どうしても億劫になってしまうきらいがある。自分を妨げるのは外聞だったり見てくれだったり、元気だったり、単にやる気だったり。わたしにとって世界は広すぎるし、頭蓋に脳は狭すぎる。
特別なものたちがわたしの人生をすっぱくしたり甘くしたりして、どちらも噛み分ける大人になるのかな?冷房の効いた部屋で毛布にくるまって、夢想地図ばかりが広がりを見せている。生きていくというのはそれだけで惨状。それでも明日は来るし、薄荷は嫌いなままだ。