過去、宿無しの夜


忘れられない料理がある。


学生時代に思わぬところで人擦れし、自分の下宿に戻れなくなるほど事態が悪化した夜があった。友だちの家に一泊できるか片端から助けを求め、なんとかアテがついたあのときの安堵感は如何程だったか。その友だちの家に着の身着のまま転がり込んでお世話になることになった。そしたら彼女はこう言った。
「夕飯の買い物に行こう」
こちらは財布すら無い服を着ただけの人間なのに、ご飯までご馳走になるとは…。慌てて気を使わなくていい旨を伝えたけれども、向こうは「家に材料がないから」と何ともなしに言う。結局その日の夜のスーパーで、二人で買い物をした。野菜をたくさん買ったのは覚えている。

困ったことに、彼女はとても料理が上手だった。

ノミが跳ねる程度の手伝いをした。自分の包丁捌きが情けなくて笑った。一緒に笑った。完成したのは、トマトスープのパスタ。食欲がないから食べ切れないかもしれない、と作ってもらった身で大分に失礼なことを言っても、残りは全部わたしが食べると応えてくれた。

一口目のあの感動を今も覚えている。

トマトの酸味、オクラの青っぽさ、炒めたニンニクの香ばしさ。二口目、三口目と不器用にフォークを使いながら、相手より早く完食してしまって恥ずかしかった。そのくらい優しくて、美味しかった。皿をひっくり返してスープも飲み干した。天才だと思った。まだ食べたいとすら思った。

聞くと、快適に料理ができるようにキッチン重視で下宿を選んだと言う。ああ、この人は幸せになるな、なって欲しいと思った。一皿の料理で、ここ数日の心の擦り傷に絆創膏を貼ってもらったような、そんな気がした。

今でもまだ思い出す。あの夜のトマトスープのパスタと、何よりも人を幸せにしてくれた友だちのこと。暖かい思い出で出来た自分の部位が、忘れてはならないと刻み込んでくれた慣性に感謝して、今日という一日を終わりにする。

明日はわたしの誕生日。