全部、青い。



書き残さないといけない夢を見る。例えば、こういった感じに。


姉と弟とわたしとで三人、アパート暮らしを始める。右隣の家からは音楽がいつも流れていた。『音符』が流れてくるので煩わしくなくて心地いい。聞こえないけどたぶん今クラシックだな、これはモダンジャズかも、フュージョンの日もいいよね。姉とおしゃれな家具ではしゃいでいると、玄関のチャイムが鳴る。お隣さんが揃いも揃ってどうしたどうしたなんかしたかと焦ると、子どもを預かって欲しいと。眼鏡を掛け色白で不健康的な父親と、顔のよく見えない上品そうな母親。その手に引かれる5歳ほどの男の子と誰にも触れていない8歳ほどの少年。親戚も用事で、今から出なければいけないがどうしても子どもの預かり手が見つからないらしい。保育士の姉は大歓迎だった。「ひとつ、ちょっと気にかけてやって欲しいのですが」父親の声が音符で流れてくる。「この子が重い吃音症なので、どうかそこら辺も、宜しくお願いします」8歳の子が初めてわたしを見上げた。黒髪を目まで伸ばして、帽子をかぶったどんぐりみたい。ところどころ白黒の世界で、彼だけが空色のTシャツと黒い半ズボン、まるで夏が逃げてきたような少年。快諾した姉は5歳の方ともう遊ぶ気満々で手を取ってキャイキャイと中に入って行った。少年は何も言わず弟について行く。

畳の似合うアパートだった。出会ってからずっと遊んでいる姉と弟と男の子。まだまだ短い手足をいっぱいに伸ばしていつもとは違うシチュエーションを楽しんでいるみたいだ。よかった。子どもが子どもらしくはしゃぐのを見ていると安心する。一方少年は座敷の隅で窓の細い隙間から入る風を受けて何も言わないまま。吃音症ってなんなんだっけ……もっと大学でちゃんと勉強するんだった……とわたしはこんな感じ。元来子どもが苦手。なんとなく場の雰囲気から浮いてしまった者同士、なんとかなれとおそるおそる話しかける。
「お風呂洗ってくるね」
あぐらを崩して立つと、少年はついて来た。オオン!?風呂洗うだけやねんて何でついて来るんこんちんまい子が!?と思った。彼の意図はすぐ知ることになる。

一緒に狭いお風呂場で、空の湯船に入ったら信じられない音を聞いた。
「僕、吃音症じゃないよ」
音符が流れてくる音じゃない。彼が喋っている。東から入る光が少年の小さな目を照らした。少年の存在証明のような瞳。ミラーボールが夏に反射して風呂場中に広がる。
「演技してるんだ」
どうして、と問う自分の声が情けない。
「ずっと音楽、うるさくない?」
「うるさくないよ、素敵だよ」
「パパは作曲家なんだ」
少年の吸った息が、肉の塊にぶつかってしっかりと音を鳴らす。これは聞かれたらいけない話なんだな、と直感で分かる話をしようとしている。
「僕はパパのゴーストライターなんだ」
悲しむでもなく、怒っているのでもなく、淡々と少年は続けた。
「言ったら怒られるから言わないように演技してるんだ。パパやママにも」

そんな自分が主人公じゃない人生いいの?
一生演技し続けるの?
貴方は苦しいときに音楽しか紡げなくて、それすらも盗まれると?

今だけでなくおそらくこれからも凄惨な人生を歩むだろう彼にどんな言葉をかければいいのか。わたしは言った。
「遊んじゃおっか」
いやもうこれ色々駄目な大人だって痛感してる。この子の力になるだけの力がわたしにはないことぐらい夢を見る前から知っている。
わたしはふいにシャワーを捻って彼に浴びせ掛けた。すると初めて、彼が仰け反って笑った。笑い声を出した。なんやこれがええんのか?おう?後にわたしは報復としてびしょ濡れになる。

出勤しろ!!!!

アラームが鳴った。結局彼との遊びはスマホの目覚ましで終わりになった。わたしは何もできなかったけれど何かした気がする。朝食のパイナップルを頬張りながら、夏のシャワールーム、小さな四角い光の中に取り残された少年が自分の中に巣食っていたことを忘れずにいたいと思っていた。夏が、きっと起きてきたんだ。名前を呼ばれないから向こうから来たんだ。深い傷を負いながら、それでもわたしの中の季節は、二本の足で立ち上がることができた。

夏が始まる。